海外社長インタビュー INTERVIEW WITH PRESIDENT
Takenaka Partners LLC. 代表取締役 竹中征夫 さん
愛知県豊橋市生まれ。1957年父親の仕事の関係で15才の時に渡米。後にユタ大学にて会計学を学び主席で卒業。卒業後、ピート・マーウィック・ミッチェル会計事務所に入社し、1967年米国公認会計士資格取得。後、入社8年目にしてパートナーとなり、大手日系企業のアメリカ進出における会計処理を手がける。1989年TAKENAKA PARTNERS LLC.を設立。現在も世界中の企業をクライアントに持ち、M&Aや経営コンサルティングを手がける。
竹中さんのこれまでの経歴をお聞かせください。
私は愛知県豊橋市に生まれましたが、1957年、私が15歳の時にアメリカに来ました。以前に進駐軍の通訳などをしていた父に連れられてきました。父は私の教育目的と言っていましたが、きっと自分が行きたかったのでしょう、私は嫌々連れられたのですから。 当時は、それこそ日本人なんていませんでしたし、英語もまったくわかりませんでしたから、それ相応に苦労しました。 後にユタ大学で会計学を学び、主席で卒業しました。ところが、人種差別等もありなかなか仕事が見つかりませんでした。そんな時に、あるリクルーターの方と運命的な出会いをしまして、幸運にも8大会計事務所の1つピート・マーウイック・ミッチェル会計事務所に入社することができました。日本人では初めての採用でした。 その後、67年に米国公認会計士の資格を取りました。 ピート・マーウイック・ミッチェル会計事務所では、民間企業でなく公共機関の監査や税務部門で働きました。通常13年かかるといわれているところを、わずか8年でパートナーになりました。 そんな中、時代の波に乗り、日本企業の国際化で米国進出が盛んに行われました。そこで、日立、三菱、ホンダ、マツダなどの大企業の会計処理を手がけました。また、精力的にM&Aを手がけ、89年には独立し、TAKENAKA Partners LLC.を立ち上げました。
「昭和のジョン万次郎」とは?
私は、日本人がまだいない時代にアメリカに心ならずも連れてこられました。そして、日本企業の国際舞台への進出をお手伝いさせていただいた。漁船が難波してアメリカに渡り、その後日本の開国に携わった「ジョン万次郎」と重なるでしょう?だから、私は自分自身で「昭和のジョン万次郎」と思っているんですよ。
外からずっと日本を見てきて、日本という国をどう思っていますか?
日本とアメリカは、全く正反対です。日本は島国で単一民族、アメリカは他民族国家、というところからして違います。日本は、一時期、それこそ1960年代にはグローバル化が進行し経済的にも人間的にも非常に活気にあふれて魅力的な国でしたが、現在は経済も成熟してしまい、ハングリー精神を失ってしまったように思います。特に若者に元気がないですね。日本人は、もっともっと世界に出て行った方がいいと思います。世界に出て、苦労して強くなって欲しい、そして強い日本を作って欲しいと切に願います。私は元々とてもシャイな人間でした。それがアメリカへ来て、本当に強くなりました。また、今では人前で話すことにもだいぶ慣れましたが、初めて公演をした頃には緊張でがちがちで内容もひどいものでした。それでも、場数を踏んで、その度に工夫をして、今ではこのように人と話すことや、人前でスピーチすることがうまくできるようなりました。「人間は環境の産物」です。新しい環境、チャレンジングな環境へ身を置くことが、自分を強くするのだと思っています。
竹中さんがお仕事の上で常に心がけていることは何でしょうか?
私いつもクライアントに「私の言うとおりにしたら失敗します。私の言ったことを自分自身で「消化」してください。」と言っています。私はその企業の経営者ではありません。私は、今までの経験や知識を生かして客観的な立場からアドバイスをしているだけです。実際に問題を解決し、道を切り開いていくのは、私でなくクライアント自信なののです。ですから、私の言葉通りにするのでなく、まずは自分自身で噛み砕く、つまり「消化」して欲しいと思っています。また、常に客観的であることを心がけています。事業の当事者は周りが見えなくなっていることが多いですから、冷静で客観的な目が必要なのです。
ご自身で会社を経営されてきて、苦労した事は何でしょうか?
日本のバブル崩壊の時代ですね。これまで一気に日本起業が米国に進出してきたのですが、バブル崩壊により沢山の会社が撤退、倒産していきました。同業他社も次々と廃業していきまして、本当に困ってしまいました。そんな状況下で、私どもは廃業する企業の清算のお手伝いをしたり、低迷する企業にアドバイスをすることで、なんとか食いつなぐことができました。その苦労の経験が、今では自信になっています。私は、「すべてポジティブ」「すべてプロアクティブ」なのです。常に前向きであることが、困難に立ち向かう最大の武器でしょう。
竹中さんがお仕事をされていたよかった思う瞬間、やりがいについて教えてください。
人のため、世のためになっている、という実感です。 私がお手伝いさせていただくことで、企業が元気になる、企業が元気なれば人が幸せになる、経済が活性化する、そんな風に世の中のため人のためになっていることが何より大きなやりがいです。 アメリカの社会は「他人の成功を喜ぶ」という傾向があります。日本では逆に「出るくいは打たれる」というように「他人の成功をねたむ」傾向があると思います。 まず、他人の成功を喜べなければ、自分に成功はないと思います。 やはり常にプロアクティブであることなのです。
竹中さんは、前日までソルトレイクシティにいらっしゃって、翌日から台湾へ行かれるという大変多忙なスケジュールの中、インタビューにご協力くださいました。何故、そんなに忙しい中対応してくださったのか、という質問にこう答えてくださいました。「すべての人との出会いにチャンスがある。今日あなたがたとお会いしたことで、何か新しいことが始まるかもしれないのです。この年になると、損得勘定や利益優先の観念はなくなるのですよ。(中略)あたながたのように、アメリカで頑張っている若者を応援したい。私が話すことで、今の日本の若者が何かしらヒントを得てくれたら嬉しい。」と。1時間強のインタビューでしたが、竹中さんのお話にどんどんのめり込んでいきました。とてもパワフルで情熱的な方で、力強いエネルギーをいただきました。ありがとうございます!